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人手不足解消のヒントはあるか―ベトナム介護リポート〜外国人技能実習生と介護の未来 part1
活性化するベトナム
午前6時、ハノイ市街地中心にあるホアンキエム湖から旧市街地まで歩いてみる。
この辺りはフランス統治下の頃できた古い建物がまだ数多く残っており、ヨーロピアンな建築物とアジアの佇まいが共存している。あたりはすっかり明るく爽やかな空気に包まれている。
公園では健康体操をやっている中高年の集団、その横では音楽をかけながら社交ダンスの練習をしている人たち。道路の脇ではヒップホップダンスを練習する若い子たち。歩道に線をひき、ネットを張ってバドミントンを楽しむ人たち。湖のほとりでは、一人でゆったりと太極拳をしている初老の婦人。
ベトナムの首都ハノイは活気に溢れ、人々は自由でのびのびと過ごしているように見受けられた。
ベトナムの経済成長はめざましく、2016年には輸出額がタイを抜いてインドシナ半島最大となった。外資企業が携帯電話などの大量生産拠点をベトナムに設立したことにより、エレクトロニクス関連が急速に伸びたことが背景とされる。
2017年の経済成長率は6.8%と高い伸びを示し(同年の中国は6.85%、日本は1.7%)、ベトナムの経済は年を追うごとに活性化しており、人件費も今後上昇する傾向にある。
このように経済成長しているベトナムに安い労働力を求め、ベトナムの介護人材を活用しようという発想では大きな誤りにつながる。
それでは、ベトナムからの海外人材を介護に活用することにどんな人材不足解消のヒントがあるだろうか。
海外人材が日本の介護現場を刺激する
長野県上田市で介護事業を展開する社会福祉法人敬老園は、2018年8月に介護の新戦力として、ベトナムから8人の介護福祉士候補者を受け入れた1)。
同法人は2017年にもすでに日本とベトナムの経済連携協定(EPA)に基づき、2名のベトナム人介護士を受け入れ、研修を受けながら現場で活躍しているとのことである。
EPAに基づく海外人材研修では、適切な職能サポートと十分な日本語研修が求められており、受け入れ施設側には相応の費用と人的負担が生まれる。海外人材の研修制度は、そもそも国際交流による経済支援と技術協力2)にある。
ベトナムの介護士を受け入れ育成してきた敬老園では、こうした負担もありながらも海外人材を介護現場で活用することには大きな意義があるという。
では、どのような意義があるのであろうか?
自分の介護を振り返り、その介護技術を伝え、表現する技術が向上
ベトナム人介護士の指導にあたった施設の先輩介護士は、人に教える立場になることで、介護の業務を客観的に捉え直し、仕事の大切さを伝達するスキルが身についたという。
しかも、文化も言葉も違うスタッフと介護の本質を共有するには、狭い価値観や思い込みにとらわれることなく、広い視野で多様性を受け入れていく必要がある。
介護の仕事では、専門職同士が交流する学会や研究発表の機会が多くない。
福祉マインドに溢れ経験豊かな介護士でも、自分たちの仕事の意義や専門性を言葉や文章で表現することが苦手な人が多い。
介護を一つの専門分野として確立していくためには“介護を知らない人にもわかるように”介護の魅力”を伝えていく技術が必要である。
海外の人材育成を通して、受け入れの現場では自分たちの仕事が具体的にどういったものなのかを「客観的」に、しかも「グローバルな視野に立って」説明できるスキルを磨くことができたという。
全く違う文化や環境を考慮すること、つまりお互いの立場を尊重することは、ともすれば私たち日本人同士でも大切な要素である。
介護現場に海外人材を活用することで、福祉の原点に立ち返る機会を得たのではないか。
社会保障費のありかたを今一度問う意味でも、介護保険制度も含め、未来の日本の介護については、過去を振り返りながら、あたらしい『社会モデル』を模索するべきである。
日本の介護は家族モデル
日本の介護保険はもともと『家族モデル』のケア構造から脱して社会で介護を支えようというのが原点であった。
それゆえ、日本はまだ“介護は家族がするもの”という考えが根強い。
日本の介護を支える状況は、家族あるいは家庭がベースにあり、介護の仕事に対する意識は『嫁』に家(=『ウチ』)の仕事を継承させる日本の『ウチ・と・ソト』という価値観から離れることができていない。
つまり、介護の仕事は専門性がないので、人に頼まない『ウチの仕事』という意識だ。
また、家族の領域である『ウチ』に他人をいれたくないという風土もある。
介護サービスの利用はギリギリまで我慢して、もう家族では見れないぐらい重度化したり症状が進行した状態になって初めて専門的な『介護』を頼もうと考える。
しかし、重度化した状態を元に戻すのは容易ではない。
結局家族も手が出せず、自宅を離れて介護のすべてをお任せする『施設ケア』に依存するようになる。
もっと早い段階で専門的な介護を活用していれば、“緩やかな老化”のなかで、重度化する前のフレイル予防、通所ケアを通じた仲間づくりやピアカウンセリング、在宅医療との連携、自分に合った在宅生活の設計や、理想に近い高齢者住宅への住み替えなどの選択肢も増えたであろう。
こうした選択肢を豊かにすることで、介護の世界に多様性が生まれる。
介護の仕事をする人たちは、より工夫を必要とすることになり、豊かな発想や創造性が育まれる。
介護サービスを利用する側にとってもより多くの選択肢が生まれることは、個性や家族背景を尊重して人生の多様性を享受するうえで重要であり、それを支える介護士にとっても専門性を高めるうえで重要である。
日本の介護観と海外人材
実のところ、海外人材の活用は労働衛生問題や経済の活性化事情、そして国際関係などが絡み合う高度な問題である。
多数の技能実習生が国内で失踪している実態や、安い労働力を求めるあまりに劣悪な環境で働かされる海外人材もあると聞く。
適切な制度改正には滞在中の語学や生活のサポートが不可欠であるが、そうした教育面での議論はまだ充分に深まっていない。
しかしながら、多様な問題点を踏まえてもなお、介護分野における海外人材の活用については可能性がある。
社会とつながる介護を生み出す
長きにわたり島国として他国と隔てた社会観を形成してきた日本人にとって海外は『ソト』である。
日本人同士でお互いを『ウチ』と『ソト』に分けて、自分たちの領域を組み立てながら生活している日本社会においては、どうしても『ソト=海外人材』に対して警戒心や拒否感を持ってしまう。
しかし、ネットで瞬時に情報をやり取りできる現代社会では、『外国=ソト』という考えはすでに過去のものとなっており、そもそも介護を『ウチ』と『ソト』に分けず、専門性に委ねた支え合いを受け入れることができれば、社会と家族が融合したコミュニティの形成につながるはずである。
幅広い背景から介護に適正がある人材を育てられる
また、日本人でも介護がしっくり来ない介護職員もいれば、外国人でも素晴らしい能力を発揮するケアワーカーが生まれる可能性はある。
問題は「どこの国で生まれたか?」ではなく、「どんな介護を提供できるのか?」という専門領域にまで「介護分野」が高まることである。
介護の質が高まればおのずと介護の魅力が磨かれ、人材不足がなくなっていくのかもしれない。
日本はもちろん、海外でも働けるグローバルな介護士、という未来があれば、若い世代の介護に対する意識は変わっていく。
フランスで活躍する日本人パティシエや、日本で活躍するアメリカ人コメディアン、北欧で活躍する中国人アーティストと何ら違いはない。
いったいどのようにしたら国や文化の枠組みを超えて、その人にとって本当に必要なケアが提供できるのか?
グローバルケアとしての『介護』のありかたを考えるヒントになるのではないだろうか。
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